日常力 大災害と日本骨髄バンク
伝える人、託す人、運ぶ人

安斎 紀さん ――震災当時 福島県立医科大学附属病院 外来看護師

 前日まで日本造血細胞移植学会に参加し、3月11日は午後のフライトで羽田を経由して福島へ帰る予定でした。午前中はせっかくの自由行動の機会、私は医師1名、同僚看護師2名の仲間と瀬戸内海を見ながらドライブを楽しみました。学会は、日頃はそれぞれの現場でお互いに忙しい関係者が一か所に集まります。同じ大学病院に勤務していても、いつもはそれぞれの持ち場で走り回っています。必要あって顔を合わせてもそれは仕事です。学会での空き時間はお互いに本当の意味で自由ですから、貴重なたいせつな息抜きの時となります。

 松山空港から羽田行きの便へと搭乗したのが14時台でした。その機内で、15時過ぎた頃でしょうか、ラジオを聴いていた同僚が「東北が大変なことになっています!」と叫ぶように言いました。私も急いでラジオを聴いたのですが、聞こえてきたのは中部方面のラジオ局のニュースです。羽田空港に向かっているはずなのに…。

 3月11日14時46分、私は日本の空の上で震災にあったのでした。

 飛行機は中部空港にいったん降り立ち、燃料を補充するとそのまま松山空港へと引き返しました。私たちは福島へ帰れなかったのです。松山空港で急遽、ホテルを手配しました。市内のホテルへ入り、テレビで流れる被災した東北一帯の映像に言葉を失いました。その夜は当然、朝までほとんど眠れませんでした。

3月12日 羽田から福島まで歩く覚悟で

 朝はともかく急いで松山空港へ向かい、予約の長い列に並びました。そして予約が取れると同時に、得も言われぬ不安や危機感に苛まれつつ飲物やパンなどを購入してから、「この金額があればいいかな」という程度の現金を引き出して手にしました。こうしてようやく羽田空港へ向かう飛行機に搭乗することが出来ました。でも羽田空港からどうやって福島へ帰るかを決めていたわけではありません。予約しようとしたレンタカーはまったくだめでしたから、最終的には福島まで歩く覚悟でした。日頃は本当におしゃべりな私たちですが、同行の仲間同士、機内では言葉少なに座っていました。とにかくどうやって福島へ帰るかという事で頭がいっぱいでした。

 でも、ちょうど私たちが羽田空港に着いた頃にモノレールが動き出していました。そこでともかくも満員のモノレールで東京駅まで移動しました。そして東京駅からは、なんとか動き出したローカル線の東北本線を乗り継いで、宇都宮までたどり着きました。その時は既に夜でした。しかし宇都宮から先の公共交通機関はまったく動いていません。東北一帯が被災して、交通網が全て壊滅状態だったのです。でも幸いなことに、同行の医師のご両親が福島から車で迎えに来てくれました。高速道路は使えませんから、その車で国道の一般道をひたすらうねうねと走りました。

 車中では、松山で買ったパンをかじったり水を飲んだりしながらの移動でした。でも夢中だったからか食べた事もよく覚えていなかったのですが、後日同行の後輩から「安斎さんはすごいですよ。あんなときでもパン食べていました」と言われ、非常時の人間のすごさを実感しました。車の中での会話も本当に少なく、とにかく無事につく事だけを祈っていました。

 頻回に鳴り続ける携帯電話の緊急警報を聞きながら、福島の自宅にたどり着いたのは夜中の3時を過ぎていました。 ところで1人娘が当時大学生で、関東圏に住んでいました。その娘に一度だけ電話をして、安全に過ごしていることを確認できると、それで済ませてしまっておりました。あとで思えば心細かったろうな、と親として反省しています。

3月13日 原発事故からが本当の混乱開始

 少し仮眠をとってから、病院へ向かいました。病院は思ったほど混乱してないと思いながら、当時の私の勤務部署である外来へと直行しました。しかし行ってみると、外来機能は完全にストップ状態でした。外来師長の指示の下で急ぎ外来の緊急体制を整えることと、担当者が出勤できていなかった小児外来へ向かい患者への対応でその日を過ごしました。小児には医療ケアの必要な子どもがいますから、そのための物品の調達や準備が必要です。治療のためにカテーテルが入ったまま退院中の子も数名いましたので、自宅でのカテーテルの消毒やテープ類が間に合っているかを確認しました。また、沿岸部の病院に通院中の子どもの親から、「飲み薬が足りなくなった」と処方の依頼があり、薬の種類や量を、担当関係者を探して確認しました。

 しかし本当の意味で混乱が始まったのは、13日の原発事故のその後です。必要あっての外来治療中でも、避難のために福島を離れざるを得ない子どもが数名いました。その子らのご両親に、治療上必要な情報が書かれた紹介状を渡しながら、私は「どうか無事に治療が完遂できますように」と心から願いました。

看護師としてできることを 地域でのボランティア ―避難所での様々な光景

 外来機能が復活するまでは、夜勤もやりました。病棟の夜勤ではなく、病院入り口に待機し、病院を尋ねる人への対応でした。入り口には、避難所を教えてほしいという方や、入院患者さんへ着替えなどを届ける方などがいました。そこに、他の病院で生まれた緊急治療が必要な赤ちゃんが、救急車で運ばれても来ました。それでも規定にしたがって休日もいただきました。しかし、休日といっても被災前のようにゆっくりする気分になれません。少しだけ身体を休めると、同僚と一緒に近くの避難所を回りました。血圧計や体温計、自分の食糧(おにぎりとお茶)を持って出かけました。

 避難所で小学生や中学生の子どもたちに何が欲しいか尋ねた時、その子たちが「服」と答えたことが印象的でした。着替えもなく避難している子供もたくさんいたのです。そこで同僚と、自宅にある衣類を持って行ったりしました。またある避難所では、入院治療中だったという男性が胸を開けて見せてくれたのですが、その胸元にはテープが貼ってありました。たぶんCVカテーテルだと思われる点滴チューブを抜去されただけで、ともかく避難してきたようです。また、寝たきりのご老人が段ボールで囲われた中で横になっていました。ご家族がおむつ交換などする際に周囲の人に気づかって、段ボールで囲んでいたのです。数日後にそのご老人が遠方に住む子どもさんの所に移った、と避難所の管理の方から聞いて、とてもホッとしました。また、体育館の避難所には、犬などのペットと一緒に避難している方々もたくさんいました。ペットもたいせつな家族なのだと思います。ある避難所を訪れた時には、全員がマイクロバスで近くの温泉に入浴に行っておりました。お風呂に入れている、と思って本当に安堵しました。小学校に避難していたおばあちゃんが「食べ物もあるし、戦争の時よりいいよ」と、家族からの差し入れの針仕事をしながら、やさしい笑顔で話されていました。

 私が訪問した避難所はほんの一部であり、そこで出会った方々も、避難された膨大な数の方々の中のほんの少しの人でしたが、たくさんの得難い経験をさせて頂きました。

院内患者会

 「雪うさぎ10西の会」は2006年6月に設立した、移植患者と家族と医療者の会です。設立から毎年、総会や芋煮会などを行ってきました。重大な病気や厳しい治療を乗り越えた患者さんたちというのは強いものです。震災から3か月後の2011年6月には、いつものように総会を開催しました。でも思えば「いつものように」というのとは少し違っていたかもしれません。それ以上に、その年の開催にはたいせつな意味があった気がします。そしてその後も年1回の総会と、がん患者チャリティーイベントであるリレー・フォー・ライフ福島に毎年参加しています。2016年には10周年の記念イベントも開催され、記念誌も発行されました。その記念誌は、患者さん達が闘病に関する事、今の自分のことなどを寄稿しているのですが、震災当時に移植治療を受けた患者さんからの寄稿もあります。一部を紹介します。

 『東日本大震災が発生した当時、私は数週間後に移植を控えた渦中にいた。未知なる手術へと取り巻く状況を直視しながら、抱いていた不安がさらに増殖している自分を今でも鮮明に覚えている。しかし、そんな思いを払拭するかの如く医療スタッフが一丸となり震災前と変わらに対応により不安を一掃させてくれた』

 当時の病棟スタッフの患者さんに対する想い、そしてそれを感じとってくれている患者さん。その絆が表れていると思って、感慨深いです。前出の小川一英先生の内容と繋がっています。

例会2019
例会(14回目の記念写真)
リレーフォーライフに参加
リレーフォーライフに参加
10周年記念誌
10周年記念誌
小児病棟の被災

 当時の小児病棟は現在のきぼう棟4階にありました。震災直後は棚から物が落下した等はありましたが、けが人やトラブルはありませんでした。ただ、水が止まり、検査が出来なくなり、治療などの延期もありました。震災当日は家族からの移植予定のAちゃんがクリーンルームに入室しました。翌日から前処置開始の予定でしたが、震災を受け移植延期となりました。主治医からの丁寧な「安全に移植を行うために、環境がある程度整ってから」という説明に、母親もAちゃんも不安を感じている様子もなく、前処置が始まるまでの期間もクリーンルームで穏やかに過ごしていました。Aちゃんの母親によれば、自分たちの今の状況よりも、ともかく震災の被害の大きさに驚いていたそうです。Aちゃんはその後数日遅れて前処置を開始し、移植も無事に終えることが出来ました。入院中の子どもたちは、治療中や、治療を予定していた子たちでしたが、カテーテルの管理や感染予防などの意味からも、家に帰るより病院の環境の方が安全であったこともあり、多くの子どもたちはそのまま入院を継続していました。13日には原発事故もあって、特にご家族は病院の環境に安堵されていました。

 では、医療者側の特に医師はどのような想いだったか、現小児腫瘍内科の佐野秀樹医師から当時のお話を伺いました。小児科の医師たちは、入院患者、外来患者の対応以外にも、県内の医療派遣にも参加し、避難所などでの乳幼児の問題への対応にも取り組んでいました。また、県内の小児科医師間でメーリングリストを活用し、県内各地の情報の共有や、間違った情報のチェック、正しい情報の提供などに努めたということです。その当時の生々しい状況がよくわかりますので、佐野医師がメーリングリストに送ったメールの一部をご紹介します。

小児科先生各位様

 各所から続々とメールが寄せられ、熱い思いを持った同志が子供たちを救おうとそれぞれの立場で懸命に働いております。グループの垣根を越えて、さらに病院の壁を越えて協力しあう体制となり、ともすると各専門分野でバラバラになりがちであった小児科が、熱い思いでひとつにまとまったようで、軽い高揚感さえ感じます。

 ところで、我が血液腫瘍グループの近況を報告するのを忘れていましたので、簡単にご報告申し上げたいと思います。現在、病棟に22名の血液腫瘍疾患の患児が残っており、治療を継続中です。菊田敦先生(現小児腫瘍内科部長)を中心に、先生方が交代で診療に当たっております。さすがに、今週化学療法をおこなったのは数人ですが、来週から本格的に、化学療法を再開したいと思っております。

 また、造血細胞移植予定の児もおります。この児はMLL遺伝子関連の急性リンパ性白血病で骨髄移植後再発し、その後化学療法に抵抗性でしたが、ボルテゾミブという薬剤を使用した化学療法でやっと寛解にはいったところです。もちろん深い寛解にはいっていないのは間違いないので、早急に移植治療を行いたいと考えております。

 また、この方はA県のほうから、当科でのHLA半合致造血細胞移植を目的に、福島まで来られた方で、この移植法自体が東日本においては当科でしかできない治療ですので、患者さんのほうからも地元に帰るという話はありません。そこで、断水が回復し、薬剤の見込みがたったら来週から移植前処置を開始したいと思います。

 この時期に、何で移植なんか?と思われる方もおられるかもしれませんが、わずかなタイミングを逃すと駄目になってしまう人もいるのです。我々のチームは菊田先生を中心に、世界水準での治療を行うべく日夜奮闘しております。震災や、原発の件はすでに起こってしまったことなのでいくら悔やんでもしょうがありません。

 我々のできることは目の前の患者さんの治療ですので、これからも攻めの姿勢で、治療が後手にならないようにしていきたいと思います。避難所への物資の調達などは、B先生を中心に、腎グループの先生方、および大学院研究生の皆さん、Cさんなどが手分けして活動していらっしゃいますし、D先生やNICUの先生方も積極的に動いていらっしゃいます。私自身は、病棟や外来の対応などでだんだん動きがとれなくなってきました。

 心苦しいかぎりですが、協力できる範囲で協力していきたいと思っております。ただ、これからやることは山ほどあります。PTSDや急性のストレス障害に対する対応。避難所での感染予防。母親の育児不安への対処。予防接種。薬不足によるアレルギーの増悪への対処。放射線による健康被害の発生のチェック。etc…

 どんな医療介入が必要になるかよく考え、問題が発生する前にある程度予測し的確に対応していければと思います。これからもみなさんのご協力が大変重要になります。

 福島に希望の光が灯るまで頑張っていきましょう。

振り返って思う事。これからへの想い。

 震災後から、私はHCTC(造血細胞移植コーディネーター)として働いています。移植治療には不思議な魅力(と言っては語弊があるかもしれませんが)があります。患者さんだけでなく、患者さんのためにHLAの検査を受けてくださる方、そしてドナーになってくださる方、そしてご家族からの熱意というエネルギーを深く感じます。看護師生活の多くの時間を、移植医療のチームの一員として関わらせて頂いている事に感謝しています。しみじみ、移植治療は平和の上に成り立つのだと思います。震災の時に感じたことをずっと忘れることなく、今後も微力ながら移植医療に貢献できたら幸せです。

 いま、世界中が新型コロナウイルス感染症の脅威にさらされています。化学療法や移植治療で免疫が低下している患者さんは、どんなにか不安な日々を送っている事でしょう。一時も早く平和な日々が戻ることを願って止みません。