日常力 大災害と日本骨髄バンク
伝える人、託す人、運ぶ人

坂田薫代さん

3月11日(金)

 松山市内で開催されていた日本造血細胞移植学会の学術集会に合わせて、10日からコーディネーターブラッシュアップ研修会を開催していました。

 研修会は、日本中にある地区事務局員と各地区事務局を起点にドナーコーディネートを担当するコーディネーターが参加対象です。研修会参加者はおよそ150人でした。コーディネーターは、常に携帯電話を持たされていて、仕事上の拘束が強い立場です。報酬もこれで食べていけるほどはいただけません。それでもドナーさんから患者さんへの想い・暖かい気持ちをいただいて、それをエネルギーにしてコーディネートを進めますが、時には「自分の説明は正しかったか」、「ひとりよがりになってないか」などと不安に思うこともあるはずです。そんな気持ちを共有し、また、全国にはこんなにたくさんのコーディネート仲間がいることを感じてほしいと思いながら、研修会を進めます。

 研修会は13時に終了しました。関係者が「皆さんお疲れ様でした」と言い交わしていっせいに岐路に着きました。私も昼食を済ませてバスで松山空港に向かったのですが、そこに、東京の事務局で業務についていた移植調整部長の小瀧さんから電話があって、大震災発生の報せを受けました。「東北から関東にかけて非常に大きな地震があって、大混乱となっています。これから職員全員を帰宅させるので事務局とは連絡が取れなくなります」という内容で、その一報の直後から携帯電話が不通となりました。

 空港に到着すると、ロビーのテレビでは沿岸に津波が押し寄せている様子が映し出されて、空気が緊迫していました。東北地区のコーディネーターも数人いて、たいへんな心境だろうと胸が詰まりました。私は先に空港へ着いていた折原さんと、少し遅れて空港に入ってくる職員やコーディネーターを集めて、これからどうするかの打ち合わせと行動を開始しました。ともかくこれから飛ぶ予定だった羽田への飛行機は全便欠航が決まりましたので、折原さんも含めてもう帰れません。先ずは明日の便を予約しようとカウンターに並びました。そうこうしているうちに、羽田へ向けて飛んで行った前の便が、羽田が閉鎖になったために引き返してきました。その便は実は一度セントレア空港に着いたものの、松山空港に帰着となってしまったそうです。その便にも何人かのコーディネーターが乗っていましたので、その人たちの明日の予約も取り直しました。ちなみに、明日の便と言っても翌12日の夕方遅くの時間でした。その予約を済ませて松山市内に戻ったのは、既に夜のかなり遅い時間になっていました。

 そうしてホテルに落ち着いたものの、本当の意味では何が起きているのか把握できているわけではありません。かなり疲れてもいます。そこでともかくも夕食を取ってから、部屋で小瀧さんと電話で話しました。「何から始めようか」と話したのですが、小瀧さんは厚労省の担当部署や移植病院や採取施設と連絡を開始している、とのことでした。私は、ここ(松山)に残っているコーディネーターや東北・関東地区事務局の職員で集まり、コーディネーターや地区事務局員、そしてもちろんドナーさん達の安否確認をする予定であることを伝え、休みました。

12日(土)

 朝、いちばん関係者が多く泊まっている市内のホテルに集まり、ホテルに事情を説明してロビーを借りる旨を伝えました。先ず、被災していない地域の地区事務局から、松山に集まった地区事務局員とコーディネーターが全員無事に帰れたかどうかの確認をしてもらいました。それから手分けして、直近(14日間)の採取予定となっているドナーさん達の安否確認から始めました。それが終わると次の週、そして次には3月いっぱいまで、とやっていきました。患者さんが前処置※を開始している場合、採取予定のドナーさんの安否確認はともかく必須です。ドナーさんは東北地方在住の方々だけでなく、仕事や旅行などで東北へ行っているかもしれませんから、この‘採取予定者’は全国にお住まいの方を対象としなくてはなりません。連絡はコーディネート担当者が携帯電話で行い、安否が判明すると報告してもらう、という繰り返しです。

 ドナーコーディネート部長と移植調整部長、ドナー安全担当者は、非血縁の移植と採取のバックアップのために、“移植予定患者、採取予定ドナーリスト”の2週間分のリストが必須です。しかし普段それは持ち出し禁止ですので持ち歩きませんが、緊急時でしたので小瀧さんからファックスで送ってもらいました。ファックスはホテルが快く貸してくださって助かりました。それがありましたから、この時も安否確認作業が速やかにできました。手分けして地区事務局に「来週の採取予定を最優先で確認してほしい」と連絡すると、その事務局からの指示で所属のコーディネーターがドナーさんの安否を確認し、その結果が私たちのもとに順次報告されてきました。東北地方は安否確認と同時に所在場所(避難所や安全なところに移動している場合もある)も確認しました。

 一方、大災害に見舞われた東北地方のコーディネーターと地区事務局員は本当に大変でした。岩手のコーディネーターは真っすぐに行けず、日本海側をたどって青森を通って丸2日かけて帰ったそうです。

 ところで東北のコーディネーターと地区事務局員が3人、一緒にいました。彼女たちはご家族の安全は確認できたのですが、ご家族から「今帰ってきても家の中は住める状態にない」ということもあり、何より地区事務局そのものが運営できる状態にないこともわかり、ひとまず全員が東京へ向かいます。そのうちの1人、東北地区事務局の石澤さんは都内に娘さんがお一人暮らしをされていたので、そこに暫く一緒に住むことになりました。他の2人はウイークリーマンションを借りて、東北事務局は関東事務局の一角で業務を進めることになります。

 この夜になって、ようやく自宅へと帰着しました。※東北事務局の緊急時対応につきましては、石澤郁子さんの章をご参照ください。

13日(日)

揺れと津波だけでも大変でしたが、やがて発生した東電の原発事故に伴い関東も計画停電が始まりました。東海道新幹線が動きましたので、静岡に住む夫が食べ物を持ってきてくれました。その後、明日の事務局までの経路を確認するために一緒に歩いてみました。

14日(月)

 出勤するのが本当に大変でしたので、職員の自宅待機も多かったです。私自身は人形町から事務局のある神田まで歩きました。

 出勤後、常務理事や事務局長、各部長などが集まり、大震災直後から昨日までの情報共有と今後の具体的対応を話し合いました。一旦、東北地方のコーディネート全体を中止と決め、各地区事務局やコーディネーターへ連絡するとともに関係者に向けて「対処方針第1報」を公表しました。そのうえで、移植が直近のものから順に、個別にドナーさん・患者さん・採取施設・移植施設・運搬ルート等の状況を確認しながら進めます。

 確認できて、そして安心できたことは、ドナーさん達が全員無事だったことです。予定とされていた移植は進められることになり、翌日(15日)に関東圏の病院での採取が決まりました。

それから

 その後、ドナーさんの安全性を確認しつつ、ライフラインの復旧状況を踏まえて東北地方のコーディネートがほぼ平常化するまで対処方針を計5回発表しました。

 東日本大震災の7年前2004年10月に中越地震が発生し、この時の被害の一つに新幹線脱線がありました。この脱線から新幹線が復旧するのに2か月かかり、年明けに復旧かと思ったら、また余震があって再びストップします。本格復旧はその1週間後となりました。とても大きな災害でしたが、この時は本部のある東京は何事もなかったので、支援のみに徹することができました。しかし、ドナーさんの安否確認や必須のコーディネートについて相談するために連絡が取れたコーディネーターさんが、「私は無事でしたが、周辺は大変な状況です。あまりのことに放心状態にあります。必要なことはそちら(中央)で進めてほしい」と涙声でいいます。東日本大震災時はエリアがあまりに広かったことと、東電の原子力発電所の津波事故が非常に大きかったことから、本部事務局も被災した状況でした。しかし中越地震はいわば局地的な災害で、私たちはそれを遠くから支援する立場にいました。この現地のコーディネーターさんの声から、現地にいる人の心身の負荷は並大抵ではないことを認識しました。 さらに私たちには、1991年からバンク事業が開始して徐々に経験を積み、文字通りブラッシュアップを繰り返してきたコーディネートスキルがあります。そしてそれを土台に皆で対応したさまざまな経験もあります。中越地震で得た教訓は、311対応でも生かされたと思います。

 そして、東日本大震災から5年後の2016年4月には熊本地震が起きました。この時は311対応をもとに対処方針を決定し対応しました。

 ところで、聞いた話ですが、九州新幹線は阪神淡路大震災の高速道路横転を参考にしっかりした線路を造ったそうです。実際、九州新幹線は熊本地震の13日後に全線が開通しました。

 災害はとりわけ現地にとって大変なことではありますが、その経験を元に私たちはまえに進む力を持っていることも感じました。