日常力 大災害と日本骨髄バンク
伝える人、託す人、運ぶ人

折原勝己さん ――震災発生時:松山空港内

 震災発生に伴う骨髄バンクとしての対応の日々、私は時々「これは緊急事態だから」と呟いていました。

 私達の仕事であるドナーコーディネート業務は、膨大とも言える関係者の方々や組織と連携し、相互の役割を確認・調整しながら、ドナーの方に造血幹細胞提供に関する情報を置かれている状況に応じて適切に提供し、提供意思を確認しながら、移植・採取に向けた調整をすることです。平穏に物事が進んでいて「平時」と言えるときでも、この「調整上の行動原理」が一定していなければなりません。そうでなければ混乱が生じて、骨髄バンクというネットワークが、どこかで目詰まりを起こし、移植を待つ患者さん、そして、ドナーの方に多大な影響を与えてしまいます。

 骨髄バンクの中枢である日本骨髄バンク中央事務局には事務局長のもと、移植調整部、ドナーコーディネート部、広報渉外部、総務部があって、粛然と日常業務を進めています。日常業務において、コーディネート上の調整業務に何やらかの問題や不具合が生じれば都度再検討し、移植医療体制の変化や様々な社会背景に合わせて安定的に進行できるよう調整を進めます。

 しかし、東日本大震災発生から暫くの間は、造血幹細胞移植医療の領域だけではなく社会全体が混乱を来たし、むしろ「社会から、非日常的に対応するように」と求められている、と受け止めて、即応していました。

 ドナーさんから患者さんに命(善意)のバトンを渡すことは、日本骨髄バンクが担う使命そのものと私は常に意識しています。東日本大震災時に私が担った役割は、ドナーさんからいただいた貴重な幹細胞を採取病院から患者さんが待つ移植病院へ届けること、それは、私が常に意識している日本骨髄バンクの基本的使命そのものでした。

 なお、平時では、日本骨髄バンクの職員は調整業務のみを行い、「幹細胞運搬」は移植施設から受け取りに来るシステムです。

3月11日(金)

 地震発生時、私は愛媛県の松山空港にいました。

 8日から開催された日本造血細胞移植学会総会は、10日(木)の午前で全セッションが終了します。日本骨髄バンクは学会総会に併せて、10日午後から11日午前にかけてコーディネーターブラッシュアップ研修会を開催しました。

 コーディネーターは当時全国に160名ほど在籍しており、全国7か所の地区事務局を基点にドナー候補者の方々に日々対応をしています。このコーディネーターの方々に、年に1度日本造血細胞移植学会総会で発表される様々な移植医療関連の研究成果を学んでもらい、更に、コーディネート業務の研鑽を目的にコーディネーターブラッシュアップ研修会を毎年開催しています。つまり、東日本大震災時には、日本骨髄バンクのドナーコーディネートを支える職員やコーディネーターがほぼ全員、松山市に集結していたことになります。

 同日午前中でコーディネーターブラッシュアップ研修会も終了し、それぞれが帰路に着きました。松山市からは、九州・近畿方面は岡山経由で新幹線・在来線など乗り継ぎ、東京や東北・北海道方面は空路で帰宅の途につきます。私も午後3時頃の飛行機で帰路に着くため、震災発生は松山空港で搭乗手続き開始を待ちながら、ワンセグでドラマを観ていました。その時、地震発生を知らせるテロップが流れ、直ちにドラマから臨時ニュースに画面が変わり地震発生を知りました。ワンセグ画面に震度が表示され、直ちに、大津波警報が発報しました。私は「何か凄い事態が起きているな」と戸惑いながら公衆電話から自宅に電話をしました。私は埼玉県在住で、震度はそれなりに強いはずだと思い不安になりました。幸いすぐに電話は繋がり、両親の安否が確認できました。

 そして直ぐに、未だ松山市にいるはずのドナーコーディネート部坂田部長(当時)に電話連絡をしたところ、坂田部長は移植調整部小瀧部長と連絡が取れたことがわかりました。中央事務局はオーナーの指示で立ち入り禁止措置が取られたため、中央事務局職員は業務を終了し、帰宅することとした、とのことでした。※詳細小瀧さんの項。

 私は、そのまま松山空港内のロビーで待機をしていましたが、先発で羽田空港に向かって離陸した航空機が羽田空港閉鎖に伴って引き返し、先ほど見送った職員がロビーに戻ってきたあたりから、松山空港内には何とも言えない緊張感が漂い始めました。当然私が搭乗する予定の便は欠航となり、翌日の振替便の手続を済ませましたが、その頃には、松山空港内のロビーに複数の報道機関の記者やテレビクルーが集まり、戸惑っている乗客にインタビュー取材をしていました。

 一方、コーディネーターブラッシュアップ研修会に同席していた骨髄バンクの事務局長は、既に陸路で東京へ向かっていたのですが、大震災発生時はちょうど大阪付近のはずでした。しかし携帯電話は全国的にパンク状態となって連絡がつきませんでした。

 やがて松山空港にバスで到着した坂田ドナーコーディネート部長と合流、今後の対応について確認しました。直ぐに開始たことは、松山空港内のロビーで待機していた職員の宿泊先を確保するため、松山市内の複数のホテルに電話で問い合わせをしました。幸い松山東急インに40室を確保することができ、空港内で待機していた職員にホテル確保を伝え、それぞれホテルに向かってもらいました。全員が出発したことを確認後、私もホテルに向かいましたが、タクシーの車内で、内閣官房長官の記者会見の音声がラジオから流れていて、原子力災害対策特別措置法による緊急事態宣言が発せられたことを知りました。20時過ぎホテルに到着、チェックインを済ませ部屋に入りテレビをつけると、宮城県仙台市を襲った津波の映像や、気仙沼市などの被害の状況が映し出され、福島第一原子力発電所の状況なども報道されていました。簡単に夕食を済ませてから寝ようとしましたが、強い不安感に襲われていて落ち来ません。テレビと室内灯を点けたままで横になりました。

12日(土)

 震災翌日、松山市内に残ったドナーコーディネート担当者は、早朝から松山東急インホテルのロビーに集合しました。直ちに、本日より2週間以内に採取が予定さているドナーの方を最優先に安否確認する作業が開始されました。しかしながら、採取に関する情報か手元に全くないことから、中央事務局の職員が出勤していることを確認し、直ちにコーディネート支援システムから、採取予定のリストを出力、そのリストをホテルにFAXするよう依頼しました。もちろんリストをFAX送信することなど通常ではありえない方法ですが、緊急事態であることから、この対応を現場判断で実施しました。

 一方、移植を実施する施設(患者さんの治療を行う病院)側の状況確認は、移植調整部小瀧部長が自宅から行い、その結果についての連絡を随時受けながら、ドナーの方々の状況と照らし合わせ、一つ一つ手作業で安否確認を実施しました。

 お昼過ぎには、提供予定のドナーさん達の安否がすべて確認できました。一方で、東日本大震災の被災地で非血縁の移植予定が福島県内で2件予定していることがわかり、移植調整部で対応について協議が開始されました。

 その頃、東北地方では余震が続く中、長野北部を中心に震度6強の強い地震があり被害が広がっていました。後で知ったのですが都内も11日の震災では震度5強でしたから、古くて耐震建築ではない建物内にある骨髄バンク中央事務局は、天井の一部が床に落下、多くのロッカーが動いてしまうという被害状況でした。帰ってみると壁には大きなひび割れが発生していました。ただ幸いなことに中央事務局の職員は、11日当夜は帰宅困難になった職員が複数いたものの、全員けがもなく無事でした。

 12日の午後遅くに、再開された羽田空港に向かう航空機は松山空港を離陸、私が東京に着いたのは12日の夜でした。それから、公共交通機関を利用して自宅に帰ることができました。ただ帰宅途中で、15時36分頃に東京電力福島第一原子力発電所で1号機の建屋内に溜まった水素が爆発した、との報道がありました。またしても言いようのない不安感が湧いていました。

13日(日)

 報道では震災に伴う被害状況が流され続けていました。

 そんな中、電力不足による計画停電を実施すると発表があり、内閣官房長官がすべての国民に向けて協力要請をしました。地震により、東京電力の福島第一および第二原子力発電所をはじめとした発電所および流通設備などが大きな影響を受けたため、供給区域における電力需給が極めて厳しい状況である、とのことでした。

 一方、私は職務上、被災地で予定されている非血縁者間移植の対応についてとても気になっています。報道で知る様々な背景のために、日曜日でしたが、この日は私にとって、「業務上の自宅待機」のような気分になっていました。

14日(月)

 計画停電が発表されたことを受け、首都圏の公共交通機関は大混乱となっている中、私は何とか中央事務局に出勤できました。しかしこの日の11時1分、福島第一原子力発電所の3号機が、原子炉建屋のオペレーションフロアから上が、1号機と同じように水素爆発し大破しました。

 東京でも余震が続き、携帯電話からは緊急地震速報が鳴り続けていました。でもその中でドナーの方は骨髄提供を応諾し、同じ状況下の関東地方にある採取病院へ出向むかれました。採取病院の担当チームは採取に関わる準備を進め、福島県内にある移植施設でも患者さんの移植の準備が進められていました。前述しましたが、通常は、移植を行う施設の関係医師が採取施設に出向いてドナーさんからいただいた骨髄液を受け取ります。しかし震災のために公共交通機関が不通となり、移植施設から採取施設に医師を派遣することは困難となったことから、日本骨髄バンクに移植施設から協力依頼がありました。それに基づいて、翌15日の骨髄液の運搬を私たちが(中央事務局内で)対応することとなりました。

 しかし問題は「運搬役と運搬方法」です。採取した幹細胞を誰がどうやって運ぶか、中央事務局内部で検討が開始されました。運搬役は最終的に私が引き受けることとなりますが、東京電力福島第一原子力発電所での1号機および3号機での水素爆発など状況が切迫し益々悪化していることを受け、万が一の放射線被ばくを想定しなければなりません。運搬の方法での問題は、福島県への行路です。採取施設は関東圏内ですから車で移動できる状況にありましたが、移植施設がある福島県内の公共交通機関はもちろん道路状況も寸断され、混乱を極めています。JR東日本管内で東北地方に向かう路線は新幹線を含め運転見合わせの状況で、再開の見込みは立っていません。結局、空路しかありません。移植調整部の部内で、手の空いている職員が皆でパソコンに向かい、何とかANAの臨時便の予約(片道)を取り付けることができました。こうして運搬に向けた準備が整いました。

15日(火)

 福島第一原子力発電所2号機では、6時14分頃、2号機で大きな衝撃音が発生、大量の放射性物質が飛散しました。こ報道の衝撃は国内だけでなく、世界に衝撃を与えました。放射性物質は、初めは南向きの風に乗って関東地方へ拡散、北西への風に変わった夕方に降り出した雨で土壌に降下し、原発から北西方向へ延びる帯状の高濃度汚染域を作り出していました。そして4号機でも水素爆発であり、原子炉建屋が大破しました。

 私は、移植調整部の職員が確保したANAの臨時便のeチケットを持って採取施設に向かい、病棟の待合室で待機しました。そこで、とても印象的なことがありました。日頃お世話になっている血液内科の採取責任医師の先生が、幹細胞の入ったバッグを手渡しながら、「折原さん、ちょっと待っていて」と言って医局に戻っていきました。先生はそれから1時間ほど経ってからA4の封筒を持って戻って見えて、「医局・病棟担当の皆で書いたメッセージが入っているから」と私に手渡しながら言われました。封印されていたので封筒の中身は拝見していませんが、この採取病院の血液内科チームから、被災地の移植チームに向けた激励メッセージであることは理解できました。心の中で「すごいなあ」と胸が詰まる想いがしました。私は幹細胞が入った運搬BOXを下げ、「わかりました」と言ってその封筒を胸に抱き、羽田空港に向かいました。

 臨時便は無事に羽田空港を飛び立ちました。運搬BOX(前の人の席下)に置きます。ANA臨時便は、事故が発生している東京電力福島第一原子力発電所から半径30km以内は飛行禁止となっていることから、そのエリアを避けて飛行しました。福島空港は、羽田空港からは空路としてはとても近いところにあるため、3,40分くらいのフライトでした。当然ですが私自身、このような緊迫した状況下での運搬は初めてのことです。何ともいえない緊張感でした。

 その後、無事福島空港に着陸。到着ロビーに着くと、ブルーシートを広げて毛布の上で仮眠している人たちがいる一方、救援のために来日した海外からの救援隊、日本赤十字社の防災服を着用した医師や看護師が緊張した趣で出口に向かう姿を見て、「ああ、ここは被災地なんだ…」と改めて感じました。福島空港の外では小雪交じりの雨が降り、底冷えする寒さでした。

 到着直後から私の緊張感も一段と高まりましたが、幸い、移植を行う病院の担当の先生とは直ぐにお会いすることができ、運搬用のBOXと採取病院のチームから託された封書を無事に手渡すことができました。その時先生からお菓子の手提げ袋を差し出されて、それがとても心に残りました。福島空港から移植病院までは距離がありますが、担当の先生はタクシーで来られていました。そのタクシーは緊急搬送用の許可を受け、東北自動車道を経由して、患者さんが待つ病院に直ちに向かわれました。

 そうして幹細胞が入ったBOXを渡してしまうと、私の任務は完了です。「さて、帰路をどうしようか」ということになりますが、当然何の準備もありません。「まあ、男1人何とかなるだろう」と思いつつ、東京から持参したお弁当で夕食を済ませ、ANAの空席待ちの列に並びましたが、最初に受け取ったペーパーに書かれた順番は270番代でした。「これはもう今日は帰れないかな」と覚悟をし、福島空港内をウロウロしながら翌日まで待機できる場所を探しました。そうしているうちに予定されていた臨時便の最終便が離陸してしまうと、空港内にはそこへ避難してきた人たち以外の人影がなくなりました。

 ところがそれから約1時間が経過した頃、ANAから羽田空港行の臨時便がもう一便出るというアナウンスがありました。羽田空港から客を乗せないまま飛行してきて、折り返して羽田空港に向かう便とのことです。既に私の前に空席待ちをしていた多くの方々が福島空港を離れていたため、私はその便に搭乗できました。

 離陸後、ANA臨時便の機内では、機長から乗客に向けてアナウンスがありました。その時のことは今でも鮮明に記憶に残っています。

 ――「乗客の皆様、そして、このたびの東日本大震災に遭われました乗客の皆様に、心より深くお見舞い申し上げます。・・・・・、大変な状況をご経験されたのではないでしょうか。短いフライトではありますが、・・・・・・、どうぞゆっくりお身体をお休めください。同乗しているキャビンアテンダント共々、できうる限りのサービスをさせて頂きます」。被災者ではない私でさえ、今思い起こしても一つ一つの言葉に胸が締め付けられ、涙が出そうになります。そして30分後に羽田空港に到着しました。

 しかし余震は続いていて、到着直前の時間に静岡県で震度6の地震が観測されていました。

それから

 東日本大震災から5年後となる2016年4月、熊本を大地震が日本を襲い、多くの方々が被災しました。日本骨髄バンクは同じように緊急体制を敷いて、移植施設からの依頼を受け、私は直ぐに東北地方にある病院から骨髄液を持って熊本に向かいます。福島へ骨髄液を届けたときも思ったのですが、被災地に緊急で単身飛び込むような役目は色々な意味でやはり男性が向いているかもしれません。