日常力 大災害と日本骨髄バンク
伝える人、託す人、運ぶ人

石澤郁子さん

3月11日(金)

 私が震災発生を知ったのは、ブラッシュアップ研修会に参加したあとの松山空港で、家族へのお土産を選んでいる時でした。折原さんから「石澤さん、仙台空港に津波がきている」と言われて、私はとっさに内心で「そんなわけない!」と一瞬、根拠なく否定しました。でも松山空港の大型テレビには、沿岸に押し寄せる津波が映し出されています。頭が真っ白になりました。もちろん詳細はわかりませんから、仙台も含む東北地方、地震と津波で大災害が発生となれば、家族がどうしているか、不安の底に落ち込みます。実は後でわかったことですが、仙台市内に住む市民でテレビも含めて家具が横転していたような家では、「津波発生」のあのニュースをリアルタイムでは見てないわけです。私の家族も、地震による津波の大災害のことは少し後で知ることになります。しかしその時の私は、仙台にいる母、娘(二人いる娘のうちの下の子)のことが心配で、どうしてよいかわかりませんでした。既にその時、携帯電話は不通になっていました。

 それから松山にいる骨髄バンクスタッフがコーディネート部長の坂田さんのもとに集合して、今日から明日にかけてどうするか指示を受けました。その出された指示の基本は、明日の空路を確保、今夜は松山市内で宿泊でした。そこで私は、昨夜のホテルに自分で電話をして宿泊を予約しました。それから明日の羽田便をとってホテルへ帰りました。

12日(土)

 翌朝から担当ドナーさんの安否確認を始めました。連絡の取れたドナーリストにある方々は、皆さん無事で、本当に安堵しました。何よりも、ドナー候補の方々から「患者さんはどうしておられるでしょう」「ご無事でしょうか」と心配そうに訊かれました。中にはかなりな被災状況にある方もおられましたが、それでも可能なら提供したいと言ってくださる方も多く、頭が下がる思いでした。

 この日の夕刻、松山に残ったコーディネート関係者全員が帰途につきました。私が羽田(つまり東京)へ向かったのは、実は上の娘が東京の神田に住んでいたからです。娘のアパートは骨髄バンクがあるのと同じ神田にあり、骨髄バンクへは歩いて行ける近さです。その娘ですが、3月11日は旅行で韓国のソウルにおりました。都内への出張の時など泊まることも多く、私はアパートの鍵をもっていて幸いでした。

 東京も震度5強でしたが、部屋はさほどの被害はありませんでした。

 仙台市内の公衆電話には長い行列ができ、娘も、家族が皆無事でいることを私に知らせる為に、何度か行列に並んだそうです。やっと夜になって私への連絡がつき、「皆、無事でいるから安心して」という言葉と声に本当に安堵しました。でも「とても怖かった。電気もガスも水道も止まっている」と、仙台市内の揺れも相当ひどかったそうです。

13日(日)〜

 JRは完全不通。どうにかして仙台に帰らなければと思い、JTBに通いましたが飛行機もだめでした。

 そんな時、東北地区事務局代表代理の佐藤さんから「(骨髄バンク本部の)中央事務局内で、東北地区の業務の一部を運用する事になったので、東京に残ってもらえないか」という電話がありました。たしかに東北一帯の状況を考えれば、私の家族は無事でしたし、「今、無理に帰るよりもその方が良いかもしれない」と、東京に残る決心をしました。

 それから1ヵ月ほど、骨髄バンクに併設されている「日本骨髄バンク・関東地区事務局」にデスクを置いてもらって、東北地区事務局のコーディネートを続けます。同じコーディネート仲間が同じフロアで働いています。

 中央事務局の全職員が、言わば被災者でもある私にとても優しく、何か足りないものはないか、ご家族はどうしているか等と声を掛けてくれました。その、ドナーさんへの声掛けで鍛錬されたタイミングの良さが素晴らしくて、何度も胸が熱くなり本当に助けられました。

 一方、その中で私が実際に行うコーディネートの対象者は、被災地に住むドナー候補者です。

 それぞれの背景には少なからず大震災の影響があります。この状況下で行うコーディネートで、本当に的確・公平(無理強いにならないよう配慮された)なコーディネーションが可能かということにコーディネート部と一緒に悩みつつ、進めました。でも、ドナー候補者さんにとっていつも以上に、病気で命の危険にさらされている患者さんへの想いも深いのだと思いますが、提供を依頼する連絡に対して、前向きなお答えがとても多かったです。中には、避難所にいることが分かった方に「無理はしないで」とお伝えすると、「無理はしませんが、私もこうして助けられていますから、できたら提供したいです」と言われた方もおられました。

 20代の男性から応諾のお返事をいただいたのですが、自宅は倒壊、母が亡くなり父は仮設住宅にいて、祖母は老人向けの施設にいるとのことです。お父さまが「今だからこそ、提供しなくちゃなあ」と面談ではっきりとおっしゃいました。

 折原さんが福島へ骨髄液を運ぶ事を知った時、コーディネートで何度も通った移植病院の血液内科の先生方の顔、病室、病院から見える福島市内の景色が蘇ってきました。病院は大変な事になっているだろうな、そして何よりも患者さんやご家族は不安な気持ちでいっぱいだろうと思いました。

 「でも大丈夫、きっと上手くいく」と強く思いました。それは、関東一帯でも余震が続く中で骨髄提供されたドナーさんや、帰りのチケットもなく放射線被ばくもあるかもしれないのに運搬を引き受けた折原さんなど、沢山の人たちが骨髄バンクのミッションを遂行する為に、粛々と尽力している実際を私も知っているからです。

それから

 徐々に、東北地区のコーディネートのための体制が回復していき、採取が近い順から開始したドナーさんへの連絡は全て取り終わりました。東北全体の医療も通常に戻り市民生活のインフラも整ってきたことから、私も約ひと月で仙台に帰ることができました。

 しかし帰ってみると、家はかなりメチャクチャになっていて、それを娘が何とか整理してくれていました。でも壁にかなりのヒビが入っていました。近所のお宅は被害がひどかったとかで、もう引っ越していなくなっていました。夫の親戚が海側にあったのですが、周辺も含めて今はもう何も無い、とのことです。私はその後、約ひと月、家にこもった状態で暮らしました。その中のある日、親戚が住んでいた海側に、一人車で向かいました。海側に近づいてくると、少しずつ景色が変わってきて、心臓がドキドキしました。立ち入り禁止区域ギリギリまで行きました。重機が大きな音を立てがれきを片付け、厳重な警備がされていました。松林もなくなり海が丸見えで、私は松山の空港で震災発生を知ってから始めて、号泣しました。

それまで、そしてそれから

 私が骨髄バンクのコーディネーターになったのは、新聞に掲載された「骨髄バンクのコーディネート募集」を見て、でした。遡ること22年前、子供たちが上は中学3年生で下の子が1年生の時、夫ががんを診断されました。青天の霹靂でしたが、それでも診断からずっと「治る」「元の‘普通の暮らし’に戻るはず」と信じていました。でも夫は亡くなり、私の人生は大きく変わりました。それまでは、仕事をするにしてもパート程度で、その合間に習い事をするくらいの本当に‘平凡な’主婦だったと思います。夫を亡くした頃はちょうど娘たちが思春期の難しい時期ということもあり、患者には家族がいて、その家族もまた様々に苦しみ、悩むことを、身を持って経験していました。ですから平成10年の骨髄バンク・ドナーコーディネート募集に、私は「患者を救うコーディネートは、その家族への支援になるはず」と確信して応募しました。

 コーディネーターになってとても良かったです。ドナーさんによって患者さん達は命を救われますが、われわれコーディネーターはたくさんの心の救いをいただくことができます。

 コーディネーターとしての私に大きな影響を与えたコーディネートがあります。

 先天性聴覚障害者のドナーで人工内耳の手術をしていて、口話もできます。連絡はFAX、面談には手話通訳者が同席です。その候補者の方は、「生まれてからずっと人のお世話になってきたので、自分も何か人の役に立てる事はないかと考えていたところ、骨髄バンクを通して患者さんを助けるためのドナーになれる事を知ってドナー登録をしました」とのことです。それでも、通訳者を介してですから説明が十分にできたかどうか、私に一抹の不安はあったものの、そのドナー候補者さんは仕事をしながら一人で暮らし、自立しています。そこで私はいつもと同じコーディネートをしようと思い、面談に臨みました。確認検査の結果では‘再検査項目’がありましたが、再検査は採血のみでしたので、その時は手話通訳者の同席はなく2人だけで行いました。その時はおそらくこのドナーさんも緊張なさったと思いますが、私もがんばって口話と筆談で進めました。そうしてこのドナーさんは骨髄提供まで至りました。提供まで至る、ということは担当期間も長くなったということですが、お付き合いするうちに少し手話を教えて貰うなどして、コミュニケーションも上手く取れるようになりました。

 ただ、いつもと同じコーディネートをと思って臨んだはずでしたが、あれもこれも手を貸してあげなければと、ドナーさんに過度に配慮を考えている自分に気が付きました。この方だけでなく誰に対しても、身体的には問題なく健康なドナーさんでも、他の面でのサポートが必要なドナーもいらっしゃいます。コーディネーターに何を求めているか察知し、ドナーそれぞれに合ったコーディネートとサポートが必要、と気づかされたケースでした。

 また、震災から4年後にコーディネートした若いドナーさんのことを、今でもとてもよく思い出します。当時、その方の会社にドナー休暇制度はありませんでした。その方の会社だけではなく、日本全体でまだまだドナー休暇は未整備でした。でもそのドナーさんは「提供する約束で登録しました。職場への(提供時の入院などの)説明はもうしました。時間給での給料カットがありますが、大丈夫です」と言います。そして、「(被災者の私の心は)きっとまだ普通ではありません。この心理のまま、給料カットもされるなどして提供して、良いのかな、とも思います。でもここで断ったらきっと悔いが残ります」。この方の想いに私も深く共感しております。もちろん患者さんの命を救うことが、骨髄提供の目的です。でもどこかで、被災した、あるいは患者家族だった、等の自分の想いを救うことにもなるのが骨髄提供でもあるようですし、骨髄バンクの仕事でもある、と感謝を込めて振り返っております。