● 伝える人、託す人、運ぶ人
小瀧美加さん 日頃は骨髄バンクの職員として粛々と業務を進めている私達ですが、東日本大震災後の混乱の中で、実は自分達だけでは何も決められない、という当たり前のことを再認識しました。もちろん骨髄バンクはドナーさんの骨髄を患者さんにあっせんするのが本業で、ドナーさんからの骨髄を採取するのも、それを受け取って移植するのも臨床現場ですから、「臨床現場の事」で私たちに手が出せることがないのは当然のことではあります。 それでも、あの非常事態の中で緊急なコーディネートを進めるにあたって、「臨床現場に急なお願いを伝えて請け負ってもらうのは本当に大変なことだけど、現場の医療関係者の方々はとても話が通りやすい人達である」ということを感じさせてもらい、感謝もまたひとしおでした。 東日本大震災があった2011年3月時点は、私が移植調整部長になって8年目でした。当時は今と同じく、事務局長と広報渉外部・移植調整部・ドナーコーディネート部・総務部の4部長で責任を持つ体制になっていました。ちょうど3日前から、骨髄バンクと密な関係にある日本造血細胞移植学会が開催されていて、事務局長とコーディネート部長が学会に出向いていました。そこで、3:11の緊急事態の中で特に私が責任を持たなくては、と考えたのは2点でした。1つはもちろん、現在進行中の提供予定者さんと移植予定患者さんの安全の確認、つまりon goingの移植のための骨髄確保とその確実な運搬です。もう1つが、職員の身の安全でした。 2011年3月8日(火)〜10日(木)
8日〜10日は、事務局長やコーディネート部長の坂田さんらと一緒に、私も造血細胞移植学会に参加しておりました。学会は例年のように盛況で、活発に学術発表がなされていましたが、9日に開催された学会長主催の懇親会では理事長の正岡先生ご提供の正岡パンが配られるなど、和やかな雰囲気を楽しませていただきました。そして10日は終日、11日の午前中も、コーディネーター対象のブラッシュアップ研修会など骨髄バンクのスケジュールがぎっしりあったのですが、特に移植調整部として関与するべき案件は無かったことから、私は10日のうちに東京へ帰りました。 11日(金) 地震発生
日本骨髄バンクが入居している建物の7階で激しい揺れを感じました。その時はちょうど厚労省の移植対策室と電話で対応中だったのですが、お互いに急ぎ「電話を切りましょう」と言って通話を終わりました。受話器を置きながら、一瞬、これで死ぬかもと思うほどの揺れで、立っていられないほどでした。コピー機が移動し、キャビネットの引き出しが全開となりました。(後で知ったことですが、別のフロアでは天井の一部が落ちました)。机の下にもぐろう!と署内全体へ声を掛けて自分も震えながら身を屈めました。ただ、揺れに耐えながらも「揺れを何十秒も感じているなら、もう危機は脱している」と聞いた記憶がありましたので、頭の一部で山場は越えたかなと思いました。でもともかく、日本骨髄バンクのある神田の広瀬ビルはとても古くて、裏を高速道路が走っていますが、そこを大型トラックが通過しても揺れるくらいですから、本当に怖かったです。 揺れが落ち着いて直ぐ、神戸に出張中の夫の携帯電話に「無事です」とメッセージを吹き込みました。その後、このビルにいてはいけない、と思いました。同年のニュージーランドの地震で、揺れが収まってからビルが倒壊したという記事を読んでいましたので、地震そのもので無事でもその後どうなるか予測はできないと考えました。 そして、全職員に外に出るよう指示しました。 私も急ぎ必要な書類を確保し、階段を降りました。外に出て、皆でビルの横の小さな広場に立ったのですが、余震が来るたびに建物の揺れが目視できて、それがとても怖かったです。そうこうしているうちに、バンクの基幹システムを管理している男性二人が、マシンルームが壊滅的な状態になっていないかを確認しに7階まで行ってくれました。でも、当時も今もよく行ってくれたと感謝していますが、冷静なって考えれば安全確保の上で適切だったと言えるかどうかわかりません。ただただ、その時は皆、夢中でした。それから松山から帰路について空港にいるコーディネート部長の坂田さん達に、「ひどい地震があったが全員無事、これから対応する」と連絡したところで電話は切れ、その後つながらなくなってしまいました。災害時に発生する「回線のパンク」状態になってしまったのだと思います。それから皆、自宅に向けての大移動を開始します。仕事机前で経験した揺れの大きさと、事務所を離れる時に目にした散乱の状態から、当時はそのまま職場に留まる考えはありませんでした。 私は、持ち出した移植調整のための書類を抱えて移動を開始しました。もちろん、通常は持ち出し禁止です。しかるべきところに保管して、しっかり施錠して帰ることになっています。しかし調整という業務をお休みすることは考えられません。迷うことなく移植予定リストを抱えて、今から何をすれば良いか、と考えながら歩き始めました。 人波と共に自宅に向けて4時間ほど歩いていると、東京医療センターがありましたので、ともかく厚生労働省や日本赤十字社等の関係機関と、そして何より前処置がすでに開始されている患者さんの主治医への連絡準備を整えなくてはと思いつつ入って行きました。あと15分も歩けば自宅ですが、自宅もどうなっているかわかりません。それで医療センターの1階の隅の公衆電話の前に陣取りましたが、電話の近くを通る人もなく、静まりかえっていました。リストを広げて電話を開始しました。つながった関係医師とのやりとりは手早かったです。余計な会話はせず、「これから提供ドナーの安否確認をするが、万が一を想定し代替手段も考慮してほしいこと」をお伝えしました。優先(15人)の順を追って連絡しましたが、状況下、やはりあまりつながりませんでした。そこで必須対応が終わったところでいったんリストを閉じ、帰宅しました。家は少し散らかっていましたが、普通に過ごせる状態でした。余談になりますが、自宅へ向かう途中でそこで、スーパーに立ち寄りトレーナー一着と、なんと焼き芋が売っていましたので、嬉しくなって買って帰りました。3月なのにとても寒い日だったのです。 自宅の架設電話を抱え、つながるところへ次々と連絡を取っている横で、テレビから甚大な被害の様相が流れて来ます。港町を覆うように津波が押し寄せる映像に、誰でも同じと思いますが、私も暗澹たる気持ちになりました。 12日(土)
朝から、昨夜に引き続き、ドナーさんや臨床現場の安否確認を継続します。わが家の架設電話、個人携帯、事務局携帯、コピー機を並べて、いわば1人事務局体制です。直ぐにわかってくるのは、西日本の病院では、何のための電話なの?というのんびりした反応で、東日本と東北地方では非常に緊迫している、ということでした。この時、「災害というのは当地でないと危険度が伝わらない。」を肌で感じました。 移植調整で差し迫っていた連絡先は、東北大学病院、福島県立医大病院でした。いま振り返れば当然ですが、全体に非常に混乱している様子でした。特に福島県では、福島県立大学病院で近々に移植予定がありました。現場の状況を思うと酷だなあと自省しつつ、「骨髄採取を進めて良いでしょうか。それとも中止にしますか」と、迫らざるを得ませんでした。 一方、その移植予定では、採取施設でも準備が進んでいます。骨髄バンクの業務の主軸が「ドナーさんからの採取とその細胞の搬送」ですから、採取施設から骨髄バンクへはこの点の判断を迫られます。この採取病院は都内ですので、地震の揺れはあったものの施設は無事でした。また幸いドナーさんも安全にしておられて「採取できますので、実行してよいでしょうか」と訊ねてきています。福島県立医大の小川先生が検討の結果「移植をします」とのお返事となり、移植決行(続行)、採取はGOとなりました。 しかしこの日の午後ごろから、重大なニュースが日本全体を覆います。津波によって福島原発に甚大な被害があり、放射能が漏れ出しました。 もう一件の移植は「予定日は月末」でやや余裕があったことから、福島で移植はしないことになりました。各方面への相談の結果、国立がんセンター中央病院の福田先生から、「喜んで対応します」ということになります。この受け入れについては、読売新聞で報道されました。 12日いっぱいかけて、その時点で2週間以内に移植予定になっている症例について、緊急の再調整を進めました。その間にも、バンクの「患者さん問い合わせ窓口」に患者さんからの不安感や問い合わせが伝わってきます。患者さんからはドナーさん達の安否も訊ねられました。それは決して自分の移植の為ばかりではなく、移植予定を通して提供の意思をいただいている方への連帯感や感謝の気持ちだと感じられました。 13日(日)
この日は日曜日でしたので、そのまま自宅で過ごしました。 14日(月)
通常の時間に出勤しました。福島原発事故の影響下、都内の計画停電も始まりました。ただ骨髄バンクの事務所がある神田は停電にはならず、コンピューターも無事で中核となる機能に支障はありませんでした。日本全体の移植施設の状況と、直近ひと月分の移植予定を確認していきました。この時点で判明したのは、石巻赤十字病院の被害でした。後に写真で見ることになりますが、クリーンルームの天井も落ちてしまっていました。 福島では既に移植のための前処置が開始しています。また、都内の採取施設から、ドナーさんからの採取準備ができた旨の連絡がありました。では、運搬はどうするか、です。通常でしたらドナーさんからいただいた骨髄液は、移植病院の医師が運びます。しかしこの時は交通手段もほぼ壊滅です。新幹線も止まり、道路は渋滞がいつ果てるともなく続いているニュースが流れています。おそらく空路しかないだろうとなりましたが、どの空港にどの飛行機が飛ぶのか未定です。東日本一帯が大混乱ですから、できる限り自分達で何とかしようということにしました。患者さんにとっては待ちに待った骨髄であり、ドナーさんからは心を込めた「命の贈り物」の骨髄です。私達骨髄バンクの関係者はとことんあっせん業務に専心しないと、という思いが皆の間に満ちていました。 15日(火)
福島へ運ぶ骨髄の採取日です。この日、ANAの臨時の福島便が飛ぶことがわかりましたので、手が空いている人が電話にかじりついて予約を取りました。でも、誰が行くか、です。そこで話し合ったのが、既に放射能が飛散している上空を行きますので、第一条件は「これから出産の予定がないひと」または「これから未来がある若い職員には行かせられない」です。そうなると、私か折原さんですが、被災地へ行きますから、やはり男性の方が良いだろう、ということで折原さんに決まりました。帰りはどうしようか、という声もありましたが、折原さん自身が「それは後で考えます」と、さっと運搬の準備に入りました。 振り返れば、移植調整20年の蓄積、試行錯誤を積み重ねがあっての311対応だった、と思います。その意味で移植リストもバージョンアップを何度も続けて来たものです。平時の地道な努力の積み重ねが生きた、と言えます。そんな想いを胸に、この日、採取病院へと向かう折原さんを見送りました。 それから
そして月末に予定されていた移植患者さんは、国立がん研究センター中央病院への搬送が決まりました。本来であれば患者さんの移動は救急車や車ですが、それが無理だったためにヘリコプターでの移送となりました。病気の治療の辛さだけでなく、このような厳しい状態で慣れた環境から離れなければならないことは、如何ばかりだったでしょう。ご家族もさぞ不安だろうと思いました。見送る小川先生や治療チームの皆さんの想いも複雑だったはずです。ただともかくドナーさんが無事でいてくださって、骨髄の提供が予定通り行われたことに安堵しました。 |