日常力 大災害と日本骨髄バンク
伝える人、託す人、運ぶ人

小川一英先生

震災発生時:JR福島駅新幹線ホーム

 日本中の大学病院や地域の基幹病院の血液内科がそうであるように、福島県立医科大学附属病院血液内科もいま治療中の患者さんともうすぐ治療予定の患者さんでいっぱいです。多くの血液がんが薬で治せるようになったものの、薬だけでは治せないタイプの白血病などを根治に導くため、造血細胞移植はたいせつな医療です。その移植という治療法の成績をさらに上げていくために、移植医療に関わる医師や研究者が研究成果を寄せ合って学び合うのが日本造血細胞移植学会・学術集会です。松山で開催された本学会に小川先生も参加され、福島へと帰着し新幹線を降り立ったその時、震災に遭遇したのでした。

※移植の大まかな経過
 患者さん、入院(一方で、提供応諾済みのドナーさんの準備進行)→移植前処置開始(放射線、大量化学療法などで、患者さんの骨髄をカラにしていく)およそ5日間→移植当日(Dayゼロ)→ドナーさんの細胞が生着(骨髄内で働き始めてくれること)を待ちつつ、無菌室で滞在

2011年3月11日 福島駅で地震に遭遇

 私はその時、造血細胞移植学会から福島へ新幹線で帰着したところでした。ちょうど福島駅に降り立ったところで、激震に見舞われました。福島駅の駅舎が大きく揺れ、身の危険を感じる地震というのを始めて経験しました。それでも揺れがおさまり駅の外に出てみると、建物の被害はほとんどないことがわかりました。交通機関が混乱する前に病院に向かったほうがよいだろうと考え、車を置いていた駐車場に急ぎました。

 病院に到着すると、病院も見かけ上は被害がなさそうで安心しました。しかし医局の混乱ぶりは予想を超える状態で、書架から本や資料が飛び出して散らばり、ありとあらゆるものが転倒して、足の踏み場もない状態になっていました。何より病棟の状態が心配でした。血液内科の病棟は10階にあります。エレベーターは停止していて使えませんから階段を駆け上がりました。しかし病棟は心配した程の被害はなく、入院患者さんにも大きな混乱はありませんでした。激震を受けた駅から、病棟が心配で急いで来ましたが、医局が物で散乱している程度だったので、安心と同時に何か拍子抜けの感覚でした。

 ところが、患者さんの状態の確認のため回診している時にテレビに映る光景を目にして、その思いと安堵感は一変しました。津波が、沿岸部の街を飲み込もうとしている映像です。これは大変なことが起きている、と慄然としました。そういえば、来週早々にはAさんの移植が控えています。ここで初めて、事態の深刻さに気付きました。さらに3月下旬には、2日前に入院したばかりのBさんの移植も予定されています。この事態で、2名の患者さんの移植が予定通りできるのか。大急ぎで情報収集する必要に迫られました。

 まずは15日に移植を予定されているAさんです。放射線照射も含めた移植前処置の2/3はすでに終了しており、もう移植を行わないという選択肢はありませんでした。ただ問題は、被災の状況下、当院でこのまま移植が可能かどうかです。もう一つ重要な問題は、関東地区に住むドナーさんからの骨髄採取が行われるかどうかでした。幸いなことに、断水状態ではありましたが、移植に必要な最低限の検査は可能であることがわかりました。また薬剤の当面の在庫も確認できましたので、Aさんについて、移植は当院で何とか可能だろうと判断しました。もちろんこの状況下で移植を進めることが患者さんにとって本当に良いのか、という迷いはありましたが、平時と違い、いくつもの選択肢の中からより良い方へと考えるような余地がありません。

12日 ドナーさんからの採取可能の報せ

 厳しい一筋の道を何とか確認している中、骨髄バンクの小瀧さんから「予定通りドナーさんからの骨髄採取は可能です」と、連絡を受けました。大変ありがたいことだと思うと同時に、ひと安心しました。おそらく採取施設周辺も地震の影響はあったろうと思っておりました。そこに届いた、ドナーさんの応諾と採取決定の報せでした。

 ところがこの日、福島第一原子力発電所の事故が起きて、事態がまた一変します。地震に加えての原発事故のために交通網が寸断されて、骨髄液の陸路の公共交通機関での運搬が不可能であることが判明したのです。空路は、採取施設のある東京から福島へは(近すぎて)飛行機の定期便はありません。ではヘリコプターが使えないか、と県の災害本部、県警など様々な部署と交渉しましたが、震災からまだ間もなくで、しかも週末ということもありどの部署も混乱を極めています。ヘリ輸送の確約を得るのは困難な状態でした。結局、我々の側が東京の採取施設に赴いて骨髄液を持ち帰ることは不可能である、という判断に至りました。どうするか、本当に袋小路です。患者さんの前処置は進行していきます。

14日 「骨髄は骨髄バンク職員が運びます」

 週明けに骨髄バンクの小瀧さんに、取りに行く手段がどうしても手配できない旨をお伝えしました。すると小瀧さんより、今回は例外的に骨髄バンクの職員が運搬します、という大変有り難い提案をいただきました。15日に羽田から福島空港までANAの臨時便が運航されることが判明したため、そのチケットを何としても確保しますから、とのことでした。それからしばらくして、チケットが確保できました、との連絡があった時には心底ホッとしました。

15日 採取病院のスタッフからー「災害に負けず、頑張ってください」

 採取病院でドナーさんから採取された骨髄液を、骨髄バンクの折原さんに、採取病院から福島空港まで運んでもらい、それを我々が空港まで行って受け取ることになりました。前日に原発事故が再度発生して放射性物質が飛び交う中、折原さんには本当にご苦労をおかけしました。そして、届いた骨髄液が納められたboxを開けてみると、「福島県立医大の皆さんへ 災害に負けず、頑張って下さい」と題した採取病院のスタッフの皆様からの励ましの寄せ書きが、何枚も添えられていました。医師、看護師、薬剤師、事務、学生まで30名を超える皆様からの署名入りの寄せ書きです。集合写真が添付されたA4のコピー用紙5枚のシンプルな寄せ書きでしたが、一つ一つのメッセージに心がこもっており、激しく心を揺すぶられ、勇気づけられました。ドナーさんからの骨髄液には、移植に携わる人々の真心が込められていることを改めて実感させられました。

 こうしてたくさんの皆様の協力を得て3月15日、予定通りAさんに対する骨髄移植が行われました。Aさんは、地震直後は予定通り移植が受けられるのかを心配しておりましたが、我々は余計なことは言わず、ただ「大丈夫ですよ」と励まし続けました。また無菌室にいて様々な雑音も入らなかったことも幸いしてか、概ね平常心で過ごされていたと記憶しています。

3月下旬まで  国立がん研究センター中央病院・福田隆浩先生「患者さん、何人でも引き受けます」

 そして、3月下旬に移植を予定していたBさんです。移植のため震災の2日前に入院していました。震災直後、テレビなどからの情報で自宅が津波で流されたことを知りました。さらにご家族とも全く連絡が取れずBさんは激しく動揺し、自分の移植どころの話ではなくなってしまいました。移植前処置で用いる全身放射線照射が震災の影響でできなくなったことや、何よりこの状況下でAさんに加えBさんの移植はとても無理だろうと判断しました。幸いBさんは寛解状態であったため、移植はひとまず延期することとして、骨髄バンクにも連絡を入れました。

 連絡が取れなかったBさんの奥様の無事が、震災から3日後の14日になって確認できました。それからBさんの移植に対する意欲は戻ってきましたが、当院では移植はできません。するとその日の午後、国立がん研究センター中央病院の幹細胞移植科の福田先生から、今回の震災で移植ができなくて困っている患者さんがいたら何人でも引き受けるという、とてもタイムリーで勇気づけられる電話が入りました。Bさんと再度話し合ったところ、がんセンターで移植を受けたい、とのことでした。そこで福田先生に移植をお願いすることとしました。

 いったんは移植中止の決定をしてそれを連絡してしまったものの、ドナーさん、採取施設とも当初の日程で心よく再調整に応じていただき、準備を整えることができました。そして3月22日に福島から高速バスで東京・築地にあるがんセンター中央病院へ行くことになりました。しかしその日が近づいても本人の顔色が今一つさえません。緊張のせいかなと思っていましたが転院直前になって、自宅が津波で流されてしまったことでほとんど現金が手元にない、ということを打ち明けてくれました。東京までのバス代もないというのです。そこで病棟スタッフの有志から数万円を募り、餞別の形でBさんに差し上げました。Bさんはまさに着の身着のまま、手荷物一つでがんセンターに向けて高速バスに乗り込みました。そして当初の予定通りの日程で、がんセンターで移植を受けることができました。

 ここからは、Bさんについての後日談です。Bさんはがんセンターを7月6日に無事退院しました。そしてそれから間もなく奥様と2人で突然私の外来を訪ねて来られました。移植後の元気な姿を私に見せたかったのと、がんセンターに行く際に借りたお金をどうしても返したいとの理由からでした。もちろん貸したお金ではなく差し上げたお金ですので受け取りませんでしたが、私にとって忘れられない「餞別」となりました。

 もう1名、福田先生に移植をお願いした患者さんがいます。急性骨髄性白血病のCさんです。Cさんは震災の2年前、妊娠後期に白血病を発症し、出産後すぐに始めた化学療法で完全寛解となりましたが、残念なことにその後再発。生まれた子供のために決意を新たに2月1日から再寛解導入療法を受けました。ところが3月に入っても全く白血球が立ち上がらず、骨髄にもほとんど有核細胞がみられなかったため、緊急的な臍帯血移植の準備をしていた矢先に震災に遭遇しました。震災のため移植は困難となりましたが、それでも一縷の望みをかけ白血球の回復を待つことにしました。しかし3月11日に300/μlだった白血球が14日には200/μlと下がってしまい、もはや移植治療は避けられないと判断し、がんセンターにCさんへのさい帯血移植をお願いすることにしました。ただCさんは骨髄の機能がほぼゼロの状態ですから、自分で出かけていくことはできません。搬送の必要があります。搬送に際しては、震災から一週間ほどた経っていたこの頃には県の対策本部も機能し始め、すぐに県警のヘリを準備してくれることになりました。3月17日、私やスタッフが見守る中、Cさんはがんセンターに向けて出発しました。そしてBさんと同じ日に無事さい帯血移植が行われました。Cさんの搬送については、翌日の読売新聞の社会面に記事として掲載されました。


「FUKUSHIMA いのちの最前線 東日本大震災の活動記録集」より

それから

 震災からすでに8年が経過しました。当時私は診療科の責任者として何度も重い決断に迫られました。原発事故の最悪の事態も想定し、それが起きた時に責任者として果たすべき役割について家族とも話し合いました。精神的につらい日々でしたが、そのような中、困っているといつも誰かが助けてくれました。なにより福島医大の医療スタッフは、今振り返っても私の自慢です。AさんとCさんの主治医の高橋先生は、15日に届いた骨髄液を受け取りに空港まで骨髄液を取りに行き、またCさんの搬送では防災ヘリでがんセンターまで付き添いました。そして他の医局の先生方も震災後誰一人として福島を離れず、また看護師の皆さんも放射線の恐怖の中で懸命に共に働きました。骨髄バンクの皆さんと羽田から福島まで臨時便を飛ばしてくれたANAにも感謝の想いが尽きません。ドナーさんからの骨髄を採取して送ってくれた2つの採取施設のスタッフの皆さん、患者さんを受け入れてくれた福田先生初め国立がんセンター中央病院のスタッフの皆さん。そして何より見ず知らずの2名のドナーさんと、さい帯血を提供してくれたお母さん。皆さんに本当に助けられました。

 この8年の間に私の立場も代わり、今は移植治療そのものには係らなくなりましたが、当時の感謝の気持ちを込めて、もうしばらく、命のリレーにほんの少しでもかかわっていたいので、今でもドナーさんからの骨髄採取はお手伝いをさせていただいております。