日常力 大災害と日本骨髄バンク

東日本大震災から10年が経過。「日常力−大災害と日本骨髄バンク」に小川一英先生と安斎紀さんから、振り返って一言をいただきました。[2021/02/16]

いま振り返って ―試されたチーム力

 あの震災で試されたのは「チーム力」でした。それは大きくは骨髄バンクを含めた日本中の移植関連施設のチーム力であり、小さくは我々診療科のチーム力です。想定外の事態が生じたときにいかにチーム力を発揮できるかは、平時の日常にあるのだと改めて感じます。

 震災から10年がたとうとする中で、私を取り巻く環境も変わり、患者さんに対する移植医療からは離れて久しくなっています。移植調整医師としては、もうしばらく働けそうですので、ドナー候補者の方に安心してドナーになってもらえるようチームの一員として、これまでの経験を生かしたいと思っております。

小川一英先生:2020年12月1日

あれから10年 ―移植医療現場でこれからも

 もう10年なのか、まだ10年なのか、気持ちはそれぞれだと思いますが、10年後のコロナ渦の今を誰も想像などしていなかったはずです。どの学会もそうであるように11月に開催された日本小児血液・がん学会もWEB開催となってしまい、多くの方に福島に来ていただく事が叶いませんでした。会議や研修もWEBになってきた中で、パソコンの画面だけでの繋がりってどうなんだろう?と直接会えないギャップに不安を感じていました。しかし、私の予想に反して、パソコンの画面から届く、あるいは届ける「言葉」の力に私だけでなく、多くの方が「言葉と共に届く気持ち」を感じていると思います。

 東日本大震災、その後も日本各地で多くの災害があり、そして今のコロナ渦・・・直接会えなくとも、人との繋がりを感じ取れる環境でこそ、人は生きていくことが出来るのだと思っています。私自身も移植治療に関わる中で、なるべく接触の機会を回避しながらも、患者様、ドナー様、ご家族が、今までと変わらず安心できる環境で過ごせるようにと心掛けています。移植医療の現場にいる限り、感謝の気持ちを忘れずに、微力ながら貢献していきたいと思っています。

安斎 紀さん:2020年12月1日

Newsletterひろば2020年12月号より『日常力』 PDF

たいせつな骨髄バンクネットワークを支える人とシステム

 非血縁移植によってしか治療法がない血液疾患の患者さんの救命のために、日本骨髄バンク(以下、骨髄バンク)は全国の移植施設、日本造血細胞移植学会、厚生労働省、世界の骨髄バンクなどとの連絡機構の一部として日々の業務をこなしています。骨髄バンクは巨大な造血細胞移植医療のネットワークの環の1つ、と言ってもよいかもしれません。東日本大震災は、その骨髄バンクにも大きな混乱をもたらしました。しかし当然、その混乱下でも非血縁移植を必要とする患者さんはいました。事実、震災発生時には「非血縁移植の予定(患者さんが移植前提の治療を受けている)」の待ったなしのケースが2件ありました。

311と骨髄バンク

 その日、その時。全ての人と組織体は混乱状態になりました。多くの報道や記録が示すように医療現場も大被害を受けました。もちろん骨髄バンクも例外ではなく、関係者の全てが「どうしたら良いか…?」と逡巡せざるを得ない状況に陥りました。

 しかしその混乱の中で、福島県内で予定されていた非血縁移植は遂行されます。それができたのは、もちろん、混乱の中でありながらドナーさんが提供してくださったからですが、その提供者さんと移植を受ける患者さんを無事に繋いだのは、骨髄バンクと移植医療現場とを‘伝え、委託し、実際に運ぶ’人たちでした。混乱の中ではここに関係する人たちも一瞬は深く戸惑ったはずです。しかし直ぐにその迷いや不安感をポケットにねじ込み、ともかく今ベッド上にある患者さんの救命のために、それぞれが足を前に進めました。骨髄バンクが発行するマンスリーレポートVol.38でもその経緯は淡々と報告されましたが、私は可能な限り「その時の想い」も交えて、「どうしたらいいか」と逡巡したところから語ってもらいました。

 そうしてお1人お1人にお話を伺っているうちに見えてきたのは、組織相互のネットワークで成り立つ事業にとって大切なのは「平時」、ということでした。日本骨髄バンク事務局の職員も、移植医療の医師や看護師や職員も、それまでの日々に営々として日常力を蓄えていたからこそ、いざという時に小回りも大回りもできたのだ、ということをあらためて感じさせていただきました。 ※「伝え、託し、届ける」へ

骨髄バンクは私の‘祈り’

 1986年7月に、幼い息子が白血病に罹患。私は「骨髄バンクというものが日本にあれば、息子の命を救えるかもしれない」という切実な思いで骨髄バンク設立運動を開始しました。全国的な設立賛同の運動の広がりによって、1989年には77万人もの方々から直筆署名をいただいて「骨髄バンクの設立を求める議員請願署名」を国会の請願課に提出。その年の国会で、時の総理大臣から「骨髄バンク設立を認める」という言葉をいただきました。私は、私たちの設立要求運動を懸命に応援してくれていた参議院議員さんから、「今日は総理大臣から‘承認’の言葉がいただけるはずですから」と、国会の傍聴席に招待されました。議場を見下ろす2階の傍聴席で、時の総理・竹下登大臣の「骨髄バンクは必要でしょうね」という承認の言葉を聞きました。私はその瞬間、これでいい、骨髄バンクはできる、と安堵し、同時に「さあ、家に帰ろう」と思いました。家には白血病の息子と、2歳下の妹が留守番をしています。

 その時の「骨髄バンクへの想い」は、それから30年経ったいまも変わりません。

 東日本大震災があった2011年3月は、私が骨髄バンクの常任理事(当時の言い方。いまは‘理事’)になって2年目に入っていました。その前の1997年〜2001年に骨髄バンク(当時は骨髄移植推進財団)に併設されていた電話相談業務にリーダーとして務めておりましたので、9年の間をおいてまた改めて関与するようになった次第です。それから今も、理事として骨髄バンクの業務推進に伴走しています。一方で、私は1993年から血液がんや血液疾患、小児血液腫瘍の当事者向けに移植医療や血液医療の情報を提供する活動のため、医療側の発展を見つめ続けてきました。

 あの震災があった2011年の3月11日。その前日の10日まで、日本造血細胞移植学会が愛媛県松山市内で開催されていました。したがってこの学会には「日本中の移植医療に関わる医師、看護師、骨髄バンク関係者」が集合していました。その学会の全てのセッションが10日の午前で終わり、医師や看護師などほとんどの学会々員は10日の内に帰っていました。私も素人ながらこの学会には会員として登録してあって、日程的に可能な限り勉強しに出向きます。その学会終了と同時に私もまた東京へ帰っていて、翌11日の震度5強の揺れには、お茶の水にあった‘がん電話情報センター’で見舞われました。

 医療現場を含む市民生活を大災害が襲いました。私もそれなりに被災し不安に陥り、様々な混乱に巻き込まれながら、あの頃「骨髄バンクがあれば、この子の命を救えるかもしれない/骨髄バンクがなければ、砂が落ちて行くように5年後にはこの子の命は尽きてしまう」という強い不安感を経験した1人として、大災害下の日本骨髄バンクを見守りました。そして、信心深くない私ですが、天に祈りました。どうか、骨髄移植を待ちながらベッド上にいる患者さんのもとに、無事に骨髄幹細胞が届けられますように…。

 その祈りの思いを胸に、311の状況下で日本骨髄バンクネットワークに関係していた方々から「あの時、私は」の物語をお聴きしました。ご登場の方々は、語ることが後々への参考になるなら、という姿勢でお話くださいました。日々営々として移植医療と骨髄バンク事業を進めておられる方々に感謝を込めて、このレポートを綴ります。

お願い

 そこで、本当に蛇足ですが一言付け加えますと、ここでの物語の文責は全て私にあります。それをお断りした上でなお願いなのですが、ドナーさんと患者さんのより良いその後のために、日本骨髄バンクでは‘ドナーさんと患者さんの組み合わせを特定しないよう配慮する’決まりです。ご登場の職員や医療関係の方々も、たいへん慎重に言葉を選んでおられます。どうかこのレポートの中の時系列や場所から‘ドナーさんと患者さんの組み合わせ’を類推なさらないようお願いします。